ゆうゆうクラブ5月例会(宮島鷹ノ巣砲台跡 4月例会が雨で延期となり再実施)
【日程】2019年5月28日
【行程】宮島桟橋集合9:55~博打尾コース~11:45包が浦12:35~13:05鷹ノ巣砲台跡13:15~包が浦~15:10宮島桟橋 (雨後の為予定コース変更、大砂利地蔵は中止・・・安全最優先)
【参加人数】17名
【登山概況】 例会担当リーダー(宮石 惇)
例会一週間前から天気予報を気にする。実施日やはり雨模様の予報に落胆していた。前日は朝からテレビの予報とにらめっこしていたが、「明日の雨は朝のうちのみで回復傾向」にあると云う。夕方土居さんと相談し実施することにしたが前日の予報が40%の確率で有れば中止としていた手前、はたして全員の参加があるのか不安を抱えつつ宮島へ向う。(予報は9時頃までは70%、それ以降は30%、午後は晴れと云う)
3名の顔を見られなかったがほぼ全員出席、雨の為足場が悪くなっている事を予想し当初のコース予定を変更し包が浦から鷹ノ巣砲台跡へと30分遅れで出発する。
雨は上がったものの休憩時にはアブの大群に襲われ難儀をしつつ一路目的地へ向う。
途中小雨が降り出したが幸いな事に丁度包が浦キャンプ場に到着、ここの東屋で昼食を取りながら雨がやむのを待っていると希望叶う。
鷹ノ巣砲台跡到着、約130年前に造られた構造物とは思えぬ技術の高さに感心しながら、当時の人々が国の存亡を掛けた思いで建造された事に感嘆をおぼえる思いである。
【感想】(国枝 忠幹)
平安時代の優雅さを誇る安芸の宮島は世界遺産の顔として名高い。しかし島の南側・包が浦に出ると表情は一変する。この日は人影のない包が浦に下りて公園施設で食事を摂りながら雨上がりを待った。
そこから背後の鷹ノ巣砲台跡に登る為である。出発前にCL宮石さんが雨で足場がおぼつかない稜線下りを止めて、海岸から登るコースに変更された。打ち合わせの際、名指しでロープをしっかり掴んで崖を下りるように指示をされていた私は胸をなでおろした。
やがて草木で見えなかった砲台施設が現れた。煉瓦、コンクリート造りの堡塁が良い状態で残っている事に驚く。明治34年、西能美島間の厳島海峡に進入する敵艦隊を射撃するため宮島・鷹ノ巣の中腹に配備された高砲台は、軍用道路をつくり、建造用石材、砲台、砲弾を運びあげて、建造の道を開いた。2門ずつの砲台基地がいくつも土盛りされたコンクリート壁で囲まれている。お互いの砲台基地と連絡できる音声管が今もなお機能していた。狭い階段を昇り下りしながら観測所、指令所、通信所、弾廠、地下宿舎などを見てまわった。
炊事場近くに8つの厠が並んでいて、コンクリート製の各々に便槽が残っていた。仕切板や扉はとっくに朽ち果てているが生活感が感じられる風景であった。
続いて長い山道を下り、海岸近くの鷹ノ巣浦の砲台跡にも寄った。明治35年、ここに低砲台が設置された。
しかし崖から何基かの砲台基地が海岸に崩落して波に洗われていた。海防の備えが目的だったとは云え、哀れな末期に思えてならなかった。
かって西能美島にある三高山砲台跡を訪れたことがある。今年は呉鎮守府開設から130年。標高400
mの高台に、明治35年設置された砲台跡は平成5年、「創造の森」として整備され、荒れ砲台(荒れ放題)
と揶揄されている。
ちなみに東京湾には長年放置されたままの人工島があり、「東の軍艦島」と囁かれているそうだ。第2海堡(かいほう)と呼ばれるそこに上陸するツアーが現在話題になっている。
嘉永6年、ペルー艦隊が来航し東京湾をいとも簡単に航行したことで、攘夷のため台場(海上では海堡)の建設を幕府が急がせた。しかしその現実には予想を越える歳月を費やしている。計画は西南戦争(明治10年)で延び、日清戦争(明治27年)日露戦争(明治37年)で見通しがつかなくなり、完成直前に関東大震災(大正12年)で津波の襲撃を受けている。出来上がった太平洋戦争の頃には大砲で戦艦を撃破する時代ではなくなっていた。自然に翻弄され、歴史に埋もれ、ほとんど役立たずに一生を終えた要塞であった。
昨年、国交省と横須賀市がこの人工島の上陸ツアーを許可した。砲台ツアーブームの到来である。幕府の指示したことが、宮島鷹ノ巣砲台や三高山砲台の設置に影響を与えたと言っていいようだ。
【写真】