ゆうゆうクラブ10月例会(交流登山)<宮島町 歴史探訪-厳島合戦跡を巡る>
【日程】2019年10月23日(水)
【行程】A班 9:30大元公園9:40~10:41前峠分岐10:46~11:00多々良林道11:10 ~11:30先峠分岐11:35~12:10高安原13:40~ニクイ~14:25奥の院14:35~14:56仁王門15:05~15:55大聖院~16:10桟橋
B班 大元公園~高安原の往復(同じ道)
【参加人数】28名
【登山概況】例会担当リーダー(宮石惇)
今回の山行は支部行事の交流登山と言うことで大勢の参加を期待していたが、募集締切り期日では21名の参加、山楽山岳からは3名、ゆうゆうクラブからは18名の状態で本来の主旨である交流登山からは程遠い状況であった。
しかしながら締切りが何日か過ぎたある日、山楽山岳の行事を変更して頂く事により本来の目的に沿う人員配分状態となり例会担当として一安心した次第である。最終的には31名参加、山楽山岳10名、ゆうゆうクラブ21名となり一大集団の山行となった。歩くなかでの交流もさることながら、下山後の宮島口での夕方の部の交流も有意義なものであった。 (当日朝の突然の不参加者3名があり、実際には合計28名の参加)
皆様の御協力有難う御座いました。
【感想】【感想-1】B班 国枝忠幹
10月23日、参加したA・B両コース28名が厳島合戦幕引きの地高安原を訪れた。
私はBコース9名の一員で、土居リーダーを先頭に往復路をピストンした。
大元公園から辿る大元谷の西斜面は初めてだった。前峠(たお)、海岸と奥の院をむすぶ多々良林道、先峠を進むとやがて前方に岩船山が見えてくる。登山者はあまり来ないようだ。地形上、岩国に近ずくからか基地を飛び立つ戦闘機の轟音が耳につく。道は倒木をまたぎ、張られたロープを握って崩落地を抜け、アップダウンを繰り返すから簡単ではない。
「ここを帰りも歩くのね」という溜息まじりの声が伝わってくる。旧海軍省の道標もあった。先着のAコースの仲間が暗い森林の中の「陶晴賢敗死之所」碑のまわりで食事の最中だった。片道3時間を要した。
日本三大奇襲戦(義経の一の谷の戦い、信長の桶狭間の戦い、元就の厳島の戦い)のひとつで1555年、厳島を舞台に繰り広げられたのが厳島合戦。毛利元就と陶晴賢(はるかた)の戦いで、断トツの奇襲戦と言えそうだ。闇夜に博打尾から突如気勢をあげる毛利軍の雄叫び、逃げまどう陶軍の悲鳴が聞こえてくるようだった。大将晴賢は大江浦や青海苔浦に脱出できる船がなく、大江浦近くの谷川で能を舞いながら自刃をして果てた。35歳。
「何を惜しみ何を恨みんもとよりも このありさまの定まれる身を」が辞世の歌だと言う。近侍が介錯し、首級を敵に盗られぬように小袖に包んで山奥の高安原の岩陰に隠した。潜んでいた晴賢の草履取りの音若が毛利側に命乞いと交換に首級のありかを教え、毛利軍は首実検をおこなって戦いに終止符を打った。私はJR廿日市近くの洞雲寺に毛利の手で葬られた晴賢の墓所を訪れたことがある。
帰路も同じコースで所要時間3時間。休憩時には朱色に染まったヤマウルシを仲間が植物図鑑を開いて同定したりした。
私は汗を流すために国民宿舎「杜の宿」で一行と別れた。汗を流し着替えてさっぱりしたが、行軍から逃れた脱走兵のような気がしないでもなかった。
【感想―2】B班 伊藤秀輔
広島支部は山頂を目指す山行、ロッククライミングをする山行があるが、今回は歴史を巡るトレッキングである。大元公園から登り始めしばらくして急登になる。暗い森林の中で眼の上にある前峠と言われる明るい峠迄喘ぎながら登る。そこからは木漏れ日の射す気持ちの良い稜線である。しばらくしてアスフアルトの多々良林道に出て、又次の先峠と言われる急登に四苦八苦する。峠の先に行くと視界が一気に開け、一面の緑の中に真赤に紅葉した一本の樹に出会う。緑の中で綺麗だ。
間もなく陶晴賢が自刃したと伝わる岩石だらけの場所に着き、石碑を見て感慨にふける。約460年前の出来事であるが武士の生き様に思いを馳せる。帰りに真赤に染まった樹についてこれはナナカマドだ、いやウルシだと論争が始まったが、三好はつえさんが持参した植物図鑑でヤマウルシと判明し、論争が終わる。今回は天候も良く、アップダウンが多い中で面白い歴史探訪であった。
【ヒヤリハット報告】 特になし
【写真】